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ドストエフスキー「白痴」

入り口も出口もない物語

亀山郁夫
東京外国語大学 学長




病める時代といわれる現代。 私たちのまわりにはさまざまな愛と憎しみが満ちています。 その心の闇の深さには、驚かされることも少なくありません。

東京外国語大学学長で、ロシア文学者の亀山郁夫さん。 最近話題になった「カラマーゾフの兄弟」の新訳を手がけたことでも知られています。 亀山さんは、「ドストエフスキーこそ現代の悩める人々に生きる指針を与えてくれる作家だ」 と考えています。

フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(1821~1881)。 死刑判決、三角関係、多額の借金など、 波乱に満ちた人生を通して人間の内面をえぐり出した作家です。 そのドストエフスキー五大長編といわれるなかでも、男女の愛憎を主題とした小説が「白痴」。 ドストエフスキー46歳の時の作品です。

亀山郁夫
「白痴」という小説はドストエフスキーが書いた小説のなかで最高の恋愛小説だといわれるし、 また、世界の文学のなかでも人間の愛をめぐるテーマ、人間の恋愛をめぐるテーマという側面では、 最高の傑作のひとつだ、というふうに一般には理解されているように思います。 しかし、実際にこの小説は、言ってみれば「謎」だらけ、と言いましょうか。 純然だる物語がそこに存在していて、それを我々が読むといういうよりも、 我々は謎めいた恋愛小説を、自分自身の体験を重ね合わせながら読むこと(ダブルイメージ)によって出来上がる恋愛小説、 と言ってよいのではないか。 それぐらいに非常に不思議な謎めいた小説だということですね。


storyteller
物語の主人公は、持病である癲癇(てんかん)の治療を終え、 スイスから帰国したばかりの純粋な青年 ムイシキン公爵。 ムイシキンは、久しぶりのペテルブルグで遠縁にあたる将軍の屋敷を訪ねます。

その将軍の家でのこと。 ムイシキン公爵は、美しい女性の写真に心を奪われます。 その女性 ナスターシャは、幼くして両親を亡くし、ある富豪の幼女となっていました。 しかし、美しく成長したため、陵辱され愛人にされてしまったようなのです。 それが今度は、富豪の身勝手な思惑から将軍の秘書と結婚させる、という話がすすめられていました。

ナスターシャが出席するというその日の夜会で、思いを打ち明けようと出かけたムイシキン公爵。 そこに、最近巨額の遺産を手にしたロゴージンが、10万ルーブルを手に荒々しく乗り込んできます。
「この女のためなら俺は10万ルーブルを出そう」


悲劇の女性 ナスターシャを巡り、ムイシキン公爵とロゴージンによる二転三転のドラマが始まります。

亀山郁夫
この「白痴」という小説は、ナスターシャ・フィリポヴナというひとりの女性を中心にして、 イエスキリストをモデルにたムイシキン公爵と、 片方は、或る意味で野生的でマッチョで、そして、浅黒い堂々たるロゴージンという、 この二人の間を揺れ動くわけなんですが。 その揺れ動き方の精神状態。それすらもわからない。 その動機が、なぜムイシキン公爵に走り。かと思うと突然ロゴージンのもとに走り。 かと思うとまたムイシキンのもとに走りという。 こういう繰り返しが、どういう理由によって、どういう衝動によって、 行われるかということ。これはドストエフスキーが明らかにしていないとこなのです。 だから、読者は、ほんとうに自分自身の記憶、或いは、経験、 それをフル回転させて、想像させて、この「白痴」というものを、「白痴」という小説を読み込んでいかなければならないという、 非常に疲れる小説と言っていいと思います。


storyteller
ロゴージンは、ナスターシャへの想いを10万ルーブルという途方も無い金額で示します。 いをけしてムイシキン公爵がナスターシャに結婚を申し込みます。
「私は純潔な貴方と結婚したいのです。貴方はさまざまな苦悩のあと、清らかな姿のまま地獄から出てこられたのだから」

ムイシキンの告白に心を動かされるナスターシャ。 しかし、その返事は意外なものでした。
「こんな人のいいおぼっちゃんを、汚れた私がダメにするなんてできないよ」
「ロゴージン、この10万ルーブルは私のものだね」「ああ」

言うが速いか、ナスターシャは10万ルーブルの包みを暖炉に投げ込んでしまいます。

「ロゴージン、さぁ、出発よ」
「さよなら公爵」




謎・・・


ナスターシャは、なぜ純愛を捧げるムイシキンを捨て、金の力にものをいわせてロゴージンを選んだのでしょうか。

亀山郁夫
ある種、この場面でのナスターシャ・フィリポヴナの心というのは、 貴方は清らかな姿のまま地獄から出てきた、というムイシキンの一言によって、 この人こそ私が求めていた人だ、というある種の啓示に似たものが、 ナスターシャの心の中に現れた。 しかし、その啓示に彼女自身がその場で従うことは出来ない。 その場をまずゼロにするということ。 それがロゴージンと一緒にあの部屋から出て行った。 ナスターシャの根本的な動機だった。 あくまでもナスターシャはムイシキン公爵に強い眼差しを向けていて、 そのための行動、そのための結果だというふうにとらえていいと思います。

ドストエフスキーという作家は、非常に親告で、そして深遠で、非常に哲学的な、 非常に難解な作家だというふうに一般には見られているんですが、 しかし、現実にドストエフスキーの小説に接した読者というのは、 必ずしもそれだけの事象ではなくて、もっともっと生々しい感覚で、 生々しい現実感覚を小説にしている、ということを発見すると思います。

そりわけ、人間の欲望というテーマ、或いは、欲望に絡む恋愛、 或いは、恋愛に絡む欲望といった、そういったテーマを、 結構えげつなく、と言いましょうか、臆面もなく提示しているところがあります。 ドストエフスキーの場合には、ほとんどの小説がそうした三角関係をモチーフにし、 必ずや、紳士に、或る女性を愛してる女性は、必ず紳士ではなくなんらかの邪な感情を抱いている力あるもの、 強者によって奪い取られるという、必ずそういう構図が描かれることになるわけになるんです。




模倣の欲望


一度はムイシキン公爵の前からロゴージンと共に立ち去ったナスターシャですが、 気持ちは一層ムイシキンに惹かれていきます。 またそれがロゴージンの嫉妬を強く駆り立てることとなるのです。 ナスターシャとムイシキンとロゴージン。 この三人による三角関係には「模倣の欲望」と呼ばれる不思議な関係が隠されていると言われています。

亀山郁夫
私が何か欲しいと。 例えば、隣の芝生が青いという言葉もありますね。 例えば、子どもがおもちゃを欲しがるという時に、自分の知っているお友達の子どもがそれを持っているから欲しいという、 そういう関係性というのが、その子ども達、幼児達の間にも存在するわけだけれども。 その構図が、人間の恋愛を巡る関係性の中にも現れてくる。 ドストエフスキーは、なぜかそれに注目する。 結局、じゃぁ、それを通してドストエフスキーは何のテーマを発見してるかというと、 やはり「傲慢さ」の問題なんです。 他社の欲望を介して自分が欲求するというのは、それは非常に傲慢で。 この、例えばムイシキン公爵とロゴージンの間に、 どういう欲望の、模倣の欲望というある種の関係性があるか、 というと、これは少なくともロゴージンの側にはあるわけです。 ムイシキン公爵は欲する相手、 ムイシキン公爵が信仰のようにして、 ロゴージンという存在を介在させずに、 愛ではなく、三角関係でもなく、 信仰のようにしてナスターシャ・フィリポヴナの愛する、 そのムイシキン公爵の、いわば、これは欲望と呼ばないでしょう。 ほとんど信仰に対してロゴージンが激しく嫉妬する。 ムイシキンの信仰をロゴージンから見ると、ひとつの欲望として模倣しようとするという。 そういう関係性が明かされている。




嫉妬の先にあるもの


この「白痴」は、若き日のドストエフスキーの実体験が下敷きとなって書かれた小説だと言われています。 ドストエフスキーは28歳の時、反政府活動に参加して逮捕され、 皇帝反逆罪で4年のシベリア流刑を経験しています。 刑期満了後、シベリアでドストエフスキーは美貌の女性マリア・イサーエワに恋をします。 しかし、マリアには愛人がいたのです。 ドストエフスキーを酷く悩ませたその三角関係が欲望の深さをみつめる目を養いました。

storyteller
物語では、或る日ムイシキンがロゴージンの元を尋ねます。 自分には敵意が無いことを告げるためでした。 複雑な想いのロゴージンでしたが、二人は十字架を交換して兄弟の契りを交わします。
「それが運命ならあんたがあの女を取れよ。あんたのものだ。このロゴージンを忘れるな。」


亀山郁夫
恋愛というのは、根本的に嫉妬ということを、嫉妬という動力、ダイナモですね。 これを通して展開するんだということ。 それは否定しがたい側面があると思うわけです。 また、人間ていうのは嫉妬というものを経験する時に最も強力に自己・自我というものを経験できるという。 言ってみれば、嫉妬というのはその意味では、自分自身が自分であることを経験させる最も強力なダイナモという言葉を使えば、 最も強力なエネルギーだと、精神的なエネルギーだと言っていいと思いますね。 ところが、その嫉妬の感情というものが或る限界にいくと、それは弾けるわけです。 その弾けたとこに生まれてくるのは何かというと、 ドストエフスキーの場合、「許し」です。 或いは自己犠牲であり、そして譲ろうという気持ちですね。 ドストエフスキーは、感情面で非常に振幅の激しい人間であり、 作家であったので、 そうした人間の持っている、仮に嫉妬というドラマにしても、 ある種極限までその嫉妬、人を殺しかねないぐらいまでの、 殺したいと思うくらいまでの嫉妬に駆られつつ、 それが裂ける状況、砕け散って普遍的な自己犠牲のようなものに変わる、 そうした感情のドラマをも経験していたというふうに思うわけです。 しかし、いずれにしても十字架の交換というある種のセレモニーが行われた瞬間で二人は、言ってみれば共犯とはいわないけれど、 ナスターシャ・フィリポヴナを愛するという意味においては、 信仰という共犯性を持つということです。


storyteller
それから幾度の紆余曲折を経て、ナスターシャとムイシキンは結婚式を挙げることになります。 その日の朝、青白い表情を浮かべて教会に現れたナスターシャは、 群集の中にロゴージンの姿をみつけます。
「ロゴージン、助けてちょうだい。連れて逃げて。今すぐ。」




入り口も出口もない物語


なぜ、ムイシキンへの想いがやっと遂げられようというその時にナスターシャは去って行ったのでしょうか。

亀山郁夫
「白痴」という小説は、どういう意味で現代的かという視点からこの小説をみると、 この三角関係のひとり一人に深い過去の傷があるということす。 深い精神的な傷を背負って現在に立ち至って、 その三人がこの現世で、ペテルブルグで出会ってしまったという、 そういう構図を成しているということです。 例えば、ナスターシャ・フィリポヴナは幼い頃に両親の家が焼ける、 そこで孤児として取り残され、その後トーツキーという男によって育てられたけれども、 どこか性の慰み者とされるような、そういった事件がどうやら起こったことがある。 その一方でムイシキンは、長い長い癲癇(てんかん)での患いが原因となって、 ほとんど一人の男として女性を愛することができるかどうかもわからない。 それに対して、ロゴージンという男。 彼は、この小説の始まりと同時に莫大の遺産を相続することになるんだけれども。 それまでは極めて抑圧的な家庭の中で、ほんとにわずかなお金で、 丁稚奉公のようにして働いてきた。 しかもロゴージン家というのは、最も極端といわれる、 最も異端的といわれるセクト、この名前は「去勢派」(19世紀末ロシア正教会に対する異端の宗派) と呼ばれるセクトです。 この「去勢派」というのは、この名称からもお解かりのように、 人間の性的な器官というものを全て切除していってしまうような、 それによって性的な悦びといったものを全て排除する。 性的な快楽、そういったものは、信仰の本来の精神に反するということで、 絶対的にタブー視するという、そういった側面での性的なトラウマがロゴージンにあるということです。

つまり三者三様に、或る意味で、性というトラウマを抱えた人物たちということです。 ここを見落とすと実は「白痴」の深層部分は何も読めないというになります。


storyteller
ナスターシャを探し求めて街をさ迷い歩くムイシキン公爵。 最後にロゴージンの元を尋ねると、ロゴージンは暗い顔をして奥へ案内します。 そこには、ロゴージンが殺してしまったナスターシャの遺体が横たわっていたのです。




愛という迷路


亀山郁夫
ロゴージンにとってナスターシャ・フィリポヴナというのは、 絶対獲得したい、言ってみれば、彼の非常に原始的な欲望の対象なんですね。 ロゴージンがナスターシャ・フィリポヴナを永遠に自分のものにしようという、 そういう行いにおいて、どういう方法が考えられるかというと、 まず一つは、ムイシキン公爵を殺そうと。 しかし、ムイシキン公爵は自分が十字架の交換を、十字架の契りを結んだ相手であるから殺せない。 次に考えられるナスターシャ・フィリポヴナを永遠に所有する方法として考えられるのは、 殺害です。殺害を通してナスターシャを完全に自分のものとする。 そういう二つの動機が考えられると思います。 しかし、もう一つ、もっとより高次の、頂上的なレベルにおける殺人という意味についても考えなければならないということなんです。 それはどういうことかというと、ドストエフスキーは、このムイシキン公爵にイエスキリストをイメージしていたという事実があるわけです。 このイエスキリストに対して、イエスキリストの花嫁は、キリスト教的な神話、福音書の神話の中ではどうなるのかということなんですね。 それは神話の中には書かれてない。 ロシアの、言ってみれば、外典と呼ばれる世俗的な信仰の中でイエスキリストの花嫁というモチーフはあるわけです。 イエスキリストの花嫁はマリアなんですね。 つまり、ムイシキン公爵、イエスキリストの像をなぞらえたムイシキンと、 ナスターシャ・フィリポヴナとの結婚というのは、言ってみれば、 イエスキリストのマリア、これは犯しがたい絆です。 なぜならば、親と子の愛によって結ばれる結婚であるわけだから、 絶対的な信頼関係、この絶対的な愛に対する救いがたいロゴージンの嫉妬が存在していたという。 そんなふうな物語として読み解くことがでるるんです。

この小説は、この殺人の理由というのもを解き明かすには小説のディテールの一行一行に入って、 その一行一行の意味を自分なりに解釈しないと分からないしくみになっている。




エピローグ


「白痴」の中で、ドストエフスキーが描き出した歪んだ愛と性のドラマ。 現代を生きる人々を蝕む心の病と驚くほど似ています。
私たちは、その「白痴」から、何を読み取ればよいのでしょうか。


亀山郁夫
この「白痴」という小説を私は純粋に精神のドラマと読んで欲しいですね。 つまり、性的なレベルにおいては、入り口も出口も完全に塞がれている物語です。 しかし、精神的なドラマにおいては、限りない可能性をを含んだ、 言ってみれば、愛と信仰のドラマとして読むことができます。 我々の時代というのは、性的なレベルにおける愛という問題に対しては、 徐々に徐々に無関心になりつつある。 我々の心というのは、より精神的なものに支配されつつあるというふうに私は感じています。 だからこそ、我々の時代には精神の病といいましょうか、 その比重というものが非常に高まってきている思います。 より人間の精神の力というものを強くするドラマとして、 この「白痴」という小説を、性的には入り口も出口もないのだという、 その了解の上に、人間の精神のドラマとして。 「人間を愛することはどういうことなのか」 ということの意味を考えて欲しいと思います。 おそらく現代の人たちは、ひょっとすると、この三角関係の中に非常にドラマチックに展開するこの小説の中に、 ひょっとすると、人間の最も精神の持っているこう念的なものを掘り当てるかもしれないなというふうに考えています。

 

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